[PR]上記の広告は3ヶ月以上新規記事投稿のないブログに表示されています。新しい記事を書く事で広告が消えます。
お盆に帰省すると、わが家はそのニュースでもちきりになってそうだなぁ……
ちょっと、肩身がせまそうな気が(汗)
今朝、お寺に拝観申込を返信葉書で出しました
寺は“御中”なのか何なのか迷いましたが、結局“御中”でよかったようです
“御中”と“ウォンチュー☆”は似てますよね。
今更ぐちぐちいうのもなんですが、事前の拝観申込が必要なお寺って、なんとなくマイワールド的な価値観を持ってそうで苦手です……
たとえ善意の親切であっても、特に興味のないことについて長々と説明されたりすると、気分はのしイカ状態です(汗)
このピンボケ気味の写真は、大書院の御簾にあった智積院紋です~
たぶん桔梗かな?
智積院なんですが、意外なことに真言宗でした
庭がすごいので、なんとなく真言ではない気がしたのですが
以下、歴史を調べてみました
真言宗は大きな流派が2派ありまして、空海が始めて代々その教えを守ってきた派と、覚鑁(かくばん)という平安末に生まれたお坊さんが「大日如来は実は阿弥陀さまだった」と唱えた派があります
なんか、それまでの密教は「極楽へ行くために修行する」というものではなく難しく哲学的なものだったようなのですが、そのころ流行っていた浄土宗の「阿弥陀如来はどんな人でももれなく極楽へつれて行く」という考え方を覚鑁さんは取り入れたみたいです
覚鑁さんがいた当時、高野山は僧たちの間で出世競争みたいなものがあって、覚鑁さんが「そんなことにうつつを抜かすよりも、ちゃんと修行しませんか?」と正論を言ったら全員から総スカンをくったような
覚鑁さん自身は別に「問答無用!」的な個性の強いというか性格が激しい人というわけでもなかったかんじなのですが
高野山にいづらくなった覚鑁さんは、弟子達といっしょに和歌山県の根来という場所に移って根来寺というお寺をひらきます。
根来寺は覚鑁さんの死後、僧兵のゴロゴロいる武力が大きい寺になり、秀吉と戦って焼き打ちされるのですが…
結局、焼打ち前に玄宥さんという人をリーダーに高野山に逃れたグループがあります
高野山を頼ったものの、「あいつら、今さら出戻りやがって…」と高野山側の態度は冷たく、根来派は居心地の悪い思いをしていたところ、関ヶ原で豊臣家を滅ぼした家康が「じゃあ、この寺に住めば?」と気前よく寺領を寄付してくれました
それが豊臣家ゆかりの京都のお寺で、さらに追加で秀吉の息子鶴松の菩提寺を加えたものが今の智積院です
玄宥さんは、根来寺が大好きで生涯忘れられなかったらしいのですが、いわば諸悪の根源な敵のテリトリーを自分の寺にというのはどんな気もちだったのでしょうか(汗)
その人の性格によって思うことはかなり違うとは思いますが……
有名な長谷川等伯・久蔵親子の素晴らしい障壁画も秀吉の息子鶴松のために描かれたもので、根来寺を焼き打ちにされた記憶のある人たちは観ていて多少なりとも複雑だったのではと思います
それで、話は現代にもどります~
ロック様が京都メモに書かれていたとおり、私はキャリーをゴロゴロところがしながら行ったわけなのですが(笑)
境内はとにかく広かったですー!
自動ドアの宝物庫に収納されている長谷川襖絵はすごく大きかったです!
色調はちょっとくすんだかんじだったかな?
芙蓉とかトロロ葵の区別がよくわかりませんでした…(汗)
金や絵の具が鮮やかだった時代は、もっと華やかだったのかもしれません
案内テープが桜図のことを説明しているのですが、そこに現物がないのがちょっとむなしかったです
かわりに、等伯筆だったかの羅漢図が展示されておりました
羅漢って、ミもフタもない話、ほとんどがおっさんです~…
やっぱり、おっさんよりも桜の花がええです
庭はとにかくツツジがすごかったです!
なんか丸く刈り込まれたツツジのかたまりがたくさんあって圧巻でした!
大書院の欄間が変な形だったので写メろうとしましたが、ことごとく失敗いたしましたです
ほんま、写真の才能も皆無です(泣)
おかげで文がグダグダです
いやでも書き直してもまぁたいして違いはないような気も
写真は展示会のポスターにプリントされてた“踊る骸骨”です。
『地獄太夫と一休』の絵に登場していた彼ではないかと思うのですが……
なんか、骸骨ってわりとみんな陽気そうですよね?
ところで河鍋暁斎とは何者かといいますと、江戸末期~明治にかけての絵師です
浮世絵と大和絵、その他流派の修行をつみそれぞれのいいところを自分のものにした人で、酒席でさっと豪快に書いた絵から、仏画などすごく真面目で細密な絵、カエルや猫の戯画など、「なんでもござれ」でマルチな印象があるように思います
動物や人物の下絵も展示してありましたが、写実的なものも様式をふまえたものもめちゃくちゃ上手です!
特に動物の絵がラブリーv感満載で…!
私はカエルが踊ったりカニが綱渡りや曲芸をしたりする鳥獣戯画の絵がすごくかわいくて好きですv
高山寺の鳥獣戯画絵巻はわりとシンプルでそこが魅力なのですが、暁斎の絵は細かいところまで描きこまれ、しかもみんなすごく楽しそうなのがいいなぁと思いました
ロック様が旅メモにて書かれていた新富座妖怪引き幕の絵は約4m×17mで、実際に見てみると圧巻でした!
妖怪は役者に似せているとありましたが、役者を知らない私は全然わかりませんでした
当時の人はちょっと見ただけで、「ああ、これってあの役者かぁ!」とピンときたのかな?
でも、知っている人が見ても端っこの小さいやつとかちょっと誰だかわかんなさそうな…
引き幕の依頼主は、なんと仮名垣魯文です!
国語の便覧に載ってるような人ですが、この人も暁斎も風刺精神がある人なので気が合ったのでしょうか
よくタッグを組んで世間をあっと言わすようなことや、おもしろいことをたくらみつつ実行したようです
あと、ニコライ堂や鹿鳴館を建てたジョサイア・コンドルさんも歴史上の有名人ですが、暁斎の絵の弟子です
イギリス人だからか、暁英という英の字の入った画号をもらってます
コンドルと暁斎は超仲良しだったようで、日光や鎌倉へ一緒に旅行したりしてます
暁斎は日光旅行の様子を、巻物にさらさらっと描いていたり
暁斎の臨終の時も立ち会ったコンドルは、ほんま師匠大好きだったみたいです
お雇い外国人の職を解雇されたコンドルや、権力とは距離を置こうとした北海道探検家の松浦武四郎とも仲がよかったりで、暁斎は権力への反骨精神というのを多分に持っていたような
暁斎は、閻魔大王の絵もたくさん描いていますが、地獄で人を裁く閻魔をわりと情けなかったりだらしない滑稽な姿にも描いています
地獄のイメージがまだまだ新鮮で怖かった時代の人達は閻魔大王とお上の存在を重ねつつ、暁斎の絵を観て「ざまぁみやがれ」とちょっとスッとしたのかもとか思います~
なんとなく偏屈そうなイメージの暁斎さんですが、でも反骨一直線というわけではなく、絵をみていると小さいものや弱いものへの愛情の量もすごく多い人でもあったんだなぁと思いました