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サギ・菓子・京都話などなど☆
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このピンボケ気味の写真は、大書院の御簾にあった智積院紋です~
たぶん桔梗かな?



智積院なんですが、意外なことに真言宗でした
庭がすごいので、なんとなく真言ではない気がしたのですが

以下、歴史を調べてみました

真言宗は大きな流派が2派ありまして、空海が始めて代々その教えを守ってきた派と、覚鑁(かくばん)という平安末に生まれたお坊さんが「大日如来は実は阿弥陀さまだった」と唱えた派があります

なんか、それまでの密教は「極楽へ行くために修行する」というものではなく難しく哲学的なものだったようなのですが、そのころ流行っていた浄土宗の「阿弥陀如来はどんな人でももれなく極楽へつれて行く」という考え方を覚鑁さんは取り入れたみたいです

覚鑁さんがいた当時、高野山は僧たちの間で出世競争みたいなものがあって、覚鑁さんが「そんなことにうつつを抜かすよりも、ちゃんと修行しませんか?」と正論を言ったら全員から総スカンをくったような

覚鑁さん自身は別に「問答無用!」的な個性の強いというか性格が激しい人というわけでもなかったかんじなのですが

高野山にいづらくなった覚鑁さんは、弟子達といっしょに和歌山県の根来という場所に移って根来寺というお寺をひらきます。

根来寺は覚鑁さんの死後、僧兵のゴロゴロいる武力が大きい寺になり、秀吉と戦って焼き打ちされるのですが…

結局、焼打ち前に玄宥さんという人をリーダーに高野山に逃れたグループがあります
高野山を頼ったものの、「あいつら、今さら出戻りやがって…」と高野山側の態度は冷たく、根来派は居心地の悪い思いをしていたところ、関ヶ原で豊臣家を滅ぼした家康が「じゃあ、この寺に住めば?」と気前よく寺領を寄付してくれました
それが豊臣家ゆかりの京都のお寺で、さらに追加で秀吉の息子鶴松の菩提寺を加えたものが今の智積院です

玄宥さんは、根来寺が大好きで生涯忘れられなかったらしいのですが、いわば諸悪の根源な敵のテリトリーを自分の寺にというのはどんな気もちだったのでしょうか(汗)
その人の性格によって思うことはかなり違うとは思いますが……

有名な長谷川等伯・久蔵親子の素晴らしい障壁画も秀吉の息子鶴松のために描かれたもので、根来寺を焼き打ちにされた記憶のある人たちは観ていて多少なりとも複雑だったのではと思います


それで、話は現代にもどります~
ロック様が京都メモに書かれていたとおり、私はキャリーをゴロゴロところがしながら行ったわけなのですが(笑)

境内はとにかく広かったですー!
自動ドアの宝物庫に収納されている長谷川襖絵はすごく大きかったです!
色調はちょっとくすんだかんじだったかな?
芙蓉とかトロロ葵の区別がよくわかりませんでした…(汗)
金や絵の具が鮮やかだった時代は、もっと華やかだったのかもしれません

案内テープが桜図のことを説明しているのですが、そこに現物がないのがちょっとむなしかったです
かわりに、等伯筆だったかの羅漢図が展示されておりました
羅漢って、ミもフタもない話、ほとんどがおっさんです~…
やっぱり、おっさんよりも桜の花がええです

庭はとにかくツツジがすごかったです!
なんか丸く刈り込まれたツツジのかたまりがたくさんあって圧巻でした!

大書院の欄間が変な形だったので写メろうとしましたが、ことごとく失敗いたしましたです
ほんま、写真の才能も皆無です(泣)




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